里桜はひとりでは神の代理になれない。
大樹がいなければ、彼女は神と対等に渡り合える逆さ斎のちからを持つ表緋寒でしかない。結果的に夜澄しか朱華の記憶を戻せないことを、彼女はわかっていないのだろうか。「……そうかもしれない」
弱々しく頷く朱華に、夜澄は今度こそ彼女の肩を抱く。朱華は、拒まなかった。
「朱華(あけはな)」 ふたつ名を呼ばれ、朱華は驚いたように顔をあげる。「そういえば、夜澄はずっと、あたしの名前を呼ばなかったね」
「そういえば、そうだったな」 「それは、夜澄が神だから?」朱華のことを「お前」と呼びつづけていた夜澄。なぜ、名前を呼んでくれないのかずっと不思議だったが、彼は桜月夜の守人のひとりの人間としてではなく、滅んだ集落の土地神の一柱として朱華と向き合うことを、はじめから考えていたのかもしれない。
――神がふたつ名を無視して人間の名を呼ぶと、その人間と向き合っているあいだは神のちからを使えないから。
「集落を滅ぼされた土地神が落ちのびたなんて、情けないだろ」
ぽつり、と弱音を吐く夜澄に、朱華は首を振る。
「そんなことない、誰だって死にたくなんか、ないもの……」
幽鬼が雲桜を襲った時の記憶は、まだ完全に思い出せないが、それでも朱華は恐怖を感じる。実際に集落を滅ぼされた夜澄は、きっと、命からがら逃げ伸びたのだろう。
「竜頭はそんな俺を匿ってくれた。幽鬼の襲来により壊滅した雷蓮(らいれん)の民を受け入れ、ルヤンペアッテの加護を分け与えてくれた。その見返りに俺は竜頭にちからを与えた。そのちからで彼は幽鬼を退けた。『雷』の集落は滅んだが、ルヤンペアッテの竜がアイ・カンナのを受け継ぐことになったんだ」
「アイ・カンナの閃光……」亡き母親が口ずさんでいた神謡に、そんな物語があった。
自分たちが生まれる前に滅んでしまった『雷』の集落、雷蓮の民が持っていた加護のちから。それは、眩しいほどに明るいひかりと残酷なほどに世界を傷つける雷土(いかつち)の矢。『雷』の民
里桜はひとりでは神の代理になれない。 大樹がいなければ、彼女は神と対等に渡り合える逆さ斎のちからを持つ表緋寒でしかない。結果的に夜澄しか朱華の記憶を戻せないことを、彼女はわかっていないのだろうか。「……そうかもしれない」 弱々しく頷く朱華に、夜澄は今度こそ彼女の肩を抱く。朱華は、拒まなかった。 「朱華(あけはな)」 ふたつ名を呼ばれ、朱華は驚いたように顔をあげる。「そういえば、夜澄はずっと、あたしの名前を呼ばなかったね」 「そういえば、そうだったな」 「それは、夜澄が神だから?」 朱華のことを「お前」と呼びつづけていた夜澄。なぜ、名前を呼んでくれないのかずっと不思議だったが、彼は桜月夜の守人のひとりの人間としてではなく、滅んだ集落の土地神の一柱として朱華と向き合うことを、はじめから考えていたのかもしれない。 ――神がふたつ名を無視して人間の名を呼ぶと、その人間と向き合っているあいだは神のちからを使えないから。「集落を滅ぼされた土地神が落ちのびたなんて、情けないだろ」 ぽつり、と弱音を吐く夜澄に、朱華は首を振る。「そんなことない、誰だって死にたくなんか、ないもの……」 幽鬼が雲桜を襲った時の記憶は、まだ完全に思い出せないが、それでも朱華は恐怖を感じる。実際に集落を滅ぼされた夜澄は、きっと、命からがら逃げ伸びたのだろう。「竜頭はそんな俺を匿ってくれた。幽鬼の襲来により壊滅した雷蓮(らいれん)の民を受け入れ、ルヤンペアッテの加護を分け与えてくれた。その見返りに俺は竜頭にちからを与えた。そのちからで彼は幽鬼を退けた。『雷』の集落は滅んだが、ルヤンペアッテの竜がアイ・カンナのを受け継ぐことになったんだ」 「アイ・カンナの閃光……」 亡き母親が口ずさんでいた神謡に、そんな物語があった。 自分たちが生まれる前に滅んでしまった『雷』の集落、雷蓮の民が持っていた加護のちから。それは、眩しいほどに明るいひかりと残酷なほどに世界を傷つける雷土(いかつち)の矢。『雷』の民
「見つけた!」 夜澄は竜神が眠る湖の前で、夕陽によって橙色に染め上げられていた風に揺れる水面を眺めていた。周囲に植えられている菊桜の淡紅色の蕾が、いまにも零れ落ちそうなおおきさに膨らんでいる。昨日の夜にはわからなかったが、この湖の周辺にも、朱華の室の窓からよく見える十重二十重の菊桜が植えられているようだ。 湯帷子のままだった朱華は雨鷺に素早く着替えさせられ、いまは動きやすい薄萌黄色の湯巻きに、やさしい色合いの撫子色の袿を合わせている。着替えが途中だと叫ぶ雨鷺の制止を振り切って室を飛び出して行ったため、沓は履いていない。 素足のまま湖まで駆けてきた朱華に、夜澄は呆れた顔で振り返る。「……別に俺は逃げやしないぞ?」 「いいの。あたしが早く夜澄に逢いたかっただけだから」 ぜいぜいと息を切らしながら、朱華は夜澄の隣に立って、波打つ湖面に視線を注ぐ。 ――この湖の底に、竜神さまの本体が眠っている。 「お前だけで、竜頭を呼び寄せるのは無理だ。里桜さまがいないと」 朱華を宥めるように、夜澄は彼女の肩を抱く。その手を振り払って、朱華は夜澄の言葉を遮る。 「だからその前に、記憶を戻してほしいの。雷神さま」 「――竜頭か」 朱華が自分の正体に気づくのは時間の問題だと思っていた。竜頭が眠る前から彼のことを知っているという情報から、御遣いとでも理解していたのだろう。だからいままで、彼女は深いことを知ろうとしなかった。朱華にとって桜月夜の夜澄は、竜神の花嫁になるまでの護衛でしかなかったから。 花神に愛され、それゆえ罪を犯したのちも裏緋寒として至高神に目をつけられ、番人に定められた逆さ斎からも強く求められた、秘するちからを蕾のように膨らませている少女。その封印が、あと二日で解ける。莫大な加護のちからを持つ少女を、自分のモノにしようと神と人間と幽鬼が競い合っているなかで、朱華は、よりによって自分に記憶を戻すよう懇願してきた。 それはつまり、竜頭にその気がないということ。 あのとき彼は朱華を自分のモノだと言っ
「水兎」 物思いにふけっていたからか、星河に前世の名を呼ばれてしまった。雨鷺は慌てて顔をあげ、星河になんでもないと言い返す。「なんでもない? どうせ竜頭さまのことを思い出して溜め息でもついたのでしょう?」 星河は雨鷺が前世の恋人の生まれ変わりだと言って、自分が神殿へ連れられた頃から、なにかと雨鷺にちょっかいを出してくる。たしかに雨鷺は産まれた頃から竜頭に兎というふたつ名と御遣いとしてのちからを与えられているが、だからといって自分の前世が竜頭の棲む湖に沈められた裏緋寒の乙女だなどということは信じられないでいたのだ。 だが、代理神の大樹に乗り移って対話を行った際に、雨鷺はそれが真実であることを知ってしまった。そして、その記憶に囚われた前世を持つ青年、清雅(せいが)が、星河という名で生まれ変わっていたということも。 竜神の御使いが兎だという話は竜糸でも公にされていない。カイムの集落の神殿を管轄する北の神都、潤蕊(うるしべ)にははるかむかしに黒い蛇が御遣いとして崇められていたという記録が残されているが、いまや長い眠りについている竜神の傍に、御遣いは存在していないと大半の『雨』の民は考えている。 だが、竜頭は酔狂なことに花嫁という生贄として投げ込まれた少女をふたたび生まれ変わらせ、その身に御遣いのちからを宿させたのだ。通常、御遣いは魂のみの存在のため、人型に姿を転じてもかたちを長い時間保つことは難しい。だが、生身の肉体を持つ雨鷺に御遣いのちからを与えた竜頭は、彼女をふたたびこの世へ送りだした。 ――かつて禁断の恋に苦しんだ前世の恋人と、ふたたびやり直させるため。 「裏緋寒と桜月夜の恋は、禁忌とされていたけれど、御遣いと桜月夜の恋なら、なんの問題もなかろうに」 大樹の口でそう言って、竜頭は雨鷺と星河を引き合わせたのだ。「……竜頭さまが本格的に覚醒しても、星河さまは、わたしの傍にいてくださる?」 雨鷺が呟くと、星河は当り前ですときっぱり告げて、彼女の身体を抱きしめる。 「――あの、盛り上がっているところ、申し訳ないのですが」
* * * 神殿には代理神、桜月夜の守人を含めて二十人弱の神職者が入っている。竜神に仕える巫女や神官にとって代理神や桜月夜の存在は羨望と嫉妬の的になるため、ふだんは神殿の敷地内でも別々の場所で生活を送っている。 だが、時折一部の巫女が表緋寒や裏緋寒と呼ばれる女神術者に仕えるため、侍女として本殿へ入ることがある。竜神の声をきくことができる能力を持つ彼女に仕えることで、自分もまた持っているちからを開花させることが可能になるのだ。 雨鷺もはじめは巫女として神殿に入った。だが、竜神の声をきく表緋寒の代理神、里桜に気に入られたため、侍女となった。里桜には専属の侍女はおらず、日によって別の巫女が着替えの手伝いに入ったりすることもあったが、雨鷺が入ってからはそのようなことも少なくなった。 竜神の花嫁として迎えられた朱華の面倒をひとりでみることになってからは、別の巫女に里桜のことをお願いしていたが、彼女が闇鬼となって朱華を襲うという悲劇が起きたため、いまは侍女見習いという形で『雪』の巫女の氷辻を里桜の傍に置いている。彼女もまた、雨鷺のように幽鬼を一時的に退けるちからを持っているのだ。 だが、その氷辻が里桜のところから戻ってこない。 おまけに、朱華は湯あたりで倒れてしまった。湯殿からはなぜか夜澄が出てくるし、星河も何が何だかわからないようだ。「ほんとうなら今日の昼までに竜頭さまを覚醒させる儀式を執り行う予定だったというのに……」 すでに時間は夕刻。 今日中に竜神を起こすのは難しそうだ。 ぶちぶちと呟く雨鷺に、まぁまぁと宥める星河。「貴女の方に、竜頭さまからの連絡はないのですか」 「どうやら起きてはいらっしゃるみたいですが、本体が湖の底で眠ったままなので、意志疎通を図ることは無理みたいです」 申し訳なさそうに告げる雨鷺に、星河は気にしてないですよと笑って頷く。「竜神さまの御遣いである貴女がわからないことが、私にわかるわけがないじゃないですか」 「……たぶん、夜澄さまならわかってらっしゃるかと思います」 「でしょうね」
定められた寿命を捻じ曲げ、生命の終わったものを甦らせる。 それは、神であろうが許されない、不変の理。 雲桜が滅んだとき、無意識に朱華が施したのも、甦生(よみがえり)の禁術だったとされる。 朱華の場合、代償として茜桜とその御遣いがちからを奪われ、その隙に、幽鬼が侵入したことで、結果的に土地神とその御遣いは生命を落とした。 至高神は一連の出来事を傍観し、禁じられた術を使いながらも土地神に愛されたがゆえに生きのびた少女を、裏緋寒の乙女に定め、月の影のなりそこないの逆さ斎を番人として竜糸の地で暮らさせた。眠りつづける竜神の花嫁にするためだとばかり思っていたが…… もしかしたら、自分はひとつ思い違いをしていたのかもしれない。 ――いったい、彼女は”誰”を生き返らせたの? きっとそれは、竜糸に因縁を持つ誰かに違いない。けれど、雲桜が滅んだとき、竜神は湖底で眠りつづけていた。それに、結果的には茜桜も彼女に折れたかたちで、甦生の禁術に協力している。幽鬼に侵略される危険性を知りながら、朱華が生き返らせることを花神は認めた。 生きつづけることを土地神に認められた人物。それは、カイムの集落を自由に行き来することのできる特別なちからを持つ者に限られる。たとえば、桜月夜のような…… 至高神なら、その人物を知っているに違いない。だから、彼女を竜糸の裏緋寒に選んで、その人物と再会させたのではなかろうか。そして、観察している。 至高神は見守ってなどいない、ただ、見ているだけ。 運命の悪戯に翻弄されつづける人間たちを? ――いいえ、翻弄されているのは、幽鬼も神も、同じこと。 あたまに浮かんだ思考を退け、里桜は目の前で泣きじゃくる氷辻の手を握りながら、諭すように言葉を紡ぐ。 「甦生術は、莫大な代償が必要になる禁じられた秘術。神々でさえ大半のちからを失うというのに、大樹さまは、貴女を救うためにひとり、犠牲になることを選ばれたのね」 大樹の場合、自分自身を代償に、禁術を施したのだろう。
* * * 「申し訳ございません!」 逆さ斎の姿を取り戻した里桜の前で、侍女見習いの少女が土気色の表情で平伏している。「なぜ、貴女が謝る必要があるの?」 目の前で震えている少女は自分が至高神の依代として乗り移られたことに気づいたのだろう、里桜を前にいまにも泣きだしそうになっている。だが、至高神は里桜にかけられた呪詛を破ってくれたのだ。たとえ気まぐれとはいえ、彼女に憑いたから、里桜は窮地を脱することができたのだ。至高神の使役する黄金の羊と同じ名を持つ、少女……氷辻(ひつじ)に。 だというのに、氷辻は自分が悪いのだと言いたげに、里桜の前で頭をさげている。「わたしが悪いのです、わたしが、大樹さまの気持ちを、受け取ってしまったから」 わたしはもう、この世に留まっていてはいけないというのに。 そう訴える幼い少女に、里桜は目をまるくする。「――大樹さまが?」 至高神はなんと言った? たしか、大樹は恋に狂って『天』の加護を放棄したと…… 「貴女が」 目の前にいる縹色の髪と濃藍色の瞳の少女から、強力な加護のちからは見いだせない。だが、至高神が使役する黄金の羊のように、その身を依代として天神に貸し与えることができることを考えると、彼女はその身に微弱ながらも『天』の加護を受けていることに違いはない。その加護をもともと持っていなかったと考えれば、行きつく先は…… 「大樹さまが、貴女に『天』の加護を与えたのね。自身を犠牲にしてまで」 そのとおりだと、氷辻は強く頷く。 そして、そのせいで大樹は姿を保つことができなくなったのだ、と。 「――逆さ斎が命ずる。至高神の加護を受けし半神よ、かの声に応えよ」 氷辻の濃藍色の瞳から一筋、流れた涙を無視して、里桜は手にそっと触れる。 大樹のちからは、死んではいない。 だから、神殿は彼が生きていると思い込んでいた。 けれどそれは違った。 生きて
* * * 「そなたが此度の我が裏緋寒となる者か」 誰何を問う朱華の声に反応するように、夜澄の瞳の色が黄金色へ煌めく。 飴色の湯船に浮かぶ桜の花びらが、重力に逆行するように雫とともに天空へと浮かび上がってゆく。「お初にお目にかかります、竜頭さま」 朱華は興味深そうに視線を注ぐ竜頭に、ぺこりを頭をさげる。 「まだ子どもではないか」 竜頭は湯帷子ごしにのぞく朱華の身体の線をじろりと見つめ、残念そうに溜め息をつく。「……あの?」 「わしはもっと豊満な肉体を持つ女性がすきじゃ。いくら神術に優れていようが、これではわしの子を孕むのは無理じゃろう」 失礼なことをぽんぽんと呟きながら竜頭は朱華の反応を眺める。一気に顔が赤く染まるのを楽しそうに見つめたのち、竜頭はゆっくりと朱華の前へ近づいていく。「な」 「あと数年もすれば誰もが羨む美貌の持ち主になるかの? 凛とした風情の|里桜《りお》とはまた異なる、雅な美人になりそうだな」 にこにこと笑みを浮かべるさまは、この身体の主が夜澄でないことを暗に示している。「だが、わしの好みではない」 「そう言いながらじりじり近寄ってくるのはどうしてですかっ!」 手を伸ばせば触れられる距離に、竜頭は立っている。このまま抱き寄せられたり押し倒されたりしたら朱華は抵抗できない。湖のなかで本体が眠っているというのに精神体だけ夜澄に乗り移った状態で、竜頭はいったい何をしようとしているのか。「決まっておる。そなたの記憶を元に戻す」 「……記憶のことも、知って」 「そりゃああやつの体内を借りておるからのう。これの思考が手に取るようにわかるわい」 ふぉっふぉっふぉという夜澄では絶対に言わない笑い声をあげて、竜頭は朱華の手を取る。てのひらに触れられた途端、朱華のなかで、ぞわり、と何かが蠢く。 『――やめろ』 それと同時に朱華の耳元に別の声が響く。
* * * パァン、という耳を劈くような破裂音が身体の内部から生じた。 未晩が猛烈な吐き気から口を開くと、ごぽり、と湧き出た泉のように血の塊が外へと流れ落ちていく。真っ赤な血は衣を染めた後、吸い取り切れなかった液体がポタポタと床に垂れ流された。その姿を見て、同朋はからからと嗤う。 「呪詛が、破られたっ……!」 里桜から逆さ斎のちからを奪おうと未晩が施した呪詛が、どうやら返されてしまったようだ。口から血を流しつづける未晩を見つめていた男は、つまらなそうに呟く。 「――代理神の半神である表緋寒を痛めつけようとした天罰だよ」 月の影のなりそこないの逆さ斎と、逆井一族に認められた表緋寒では神々からの信頼の差も歴然としている。未晩が裡に飼っていた闇鬼のちからを取り込み幽鬼となったことを、傍観者である至高神が見逃すわけがない。たとえ至高神が未晩を裏緋寒の番人に選んだとしても、優先順位を考えれば表緋寒の、竜糸の土地神に代わる存在に選ばれた少女のちからがそのまま土地へ還ってしまうのを退けるために動くのは仕方のないことである。 男の説明を耳に入れる余裕もないのだろう、未晩は血の塊を吐き出しながら顔を真っ青にしている。常人ならば放っておけば出血多量で死に至るだろうが幽鬼と契約を交わした彼のことだ、呪詛を返されただけならば簡単に死ぬこともなかろう。せいぜいしばらくのあいだ使い物にならない程度だ。 「とはいえ、ここで未晩が使えないとなると、都合が悪いんだよなぁ」 彼の目的はあくまで裏緋寒の乙女を自分の手元へ取り戻すこと。そのためなら神々を滅ぼすことも厭わないと幽鬼である自分と契約を交わし、自らも幽鬼となった。もともと人を襲う鬼をその身に封じ、心の裡に闇鬼を飼い慣らしていた未晩は幽鬼と融合する際に拒否反応を起こすこともなかったため、呪術の能力と身体機能が上昇したくらいにしか思っていなかったのだろう。その分、自分が放った呪詛を返されれば、その身に食らう術式の量が増えるのも仕方のないことである。「……だけど、彼女を求める気持ちは
だというのに、至高神はいま、なんと言った? 「――そんな、ことが」 「裏緋寒の番人がそなたに施した忌術は完全なものになりつつある。一晩でこうも逆さ斎の色が抜けるとは妾も思わなかったがのう……いまのそなたは神皇帝に選ばれた代理神の半神でも逆井一族に連なる逆さ斎でもない、神と対話をすることすら憚られるただの紅雲の娘じゃ。それは逆に、『雲』のちからを発揮するにはもってこいな状況になる。どうかの? いっそのこと、表緋寒から裏緋寒に、そなたが成り代わり、莫迦息子の嫁になっては」 朱華に返すはずの花神のちからを、至高神は里桜に渡せるのだと暗に告げる。神々の誓約を、自ら破棄しても構わぬと豪語する。どこまでも気ままで、傲慢で、自分勝手な、この世界に遊ぶ、哀れな女神。 もし、ここで里桜が頷いたら、朱華はどうなるのだろう。竜頭の花嫁として神殿に迎えられたはずの彼女が、手にするはずのちからを、里桜が、奪い取って、裏緋寒の資格を手に入れたら…… 地に従う逆さ斎となった里桜には許されざる願望だった、土地神の花嫁。その願いを、至高神は叶える手段を持っている。だが。 「……何が目的なのです?」 腑に落ちない。取引を持ちかけている彼女の方に、何の得があるのだろう。「目的とな? そんなもの存在せぬ。ただ、その方が面白そうだと思ったからじゃ」 「――お断りします」 その言葉が、決め手になった。この神は、竜糸の将来がどうなっても別に構わないのだ。竜頭が死んだらそれまでのことと見切りをつけて、また別の集落に悪戯を仕向ける。 神々と幽鬼の戦いに人間を巻きこみながら、高みで見物することしか許されない、唯一の、孤高の神。かの国を興した始祖神の姐神(あねがみ)であろうが、竜頭の代理神として竜糸の集落を守護してきた里桜からすれば、強いちからを持ちながらひとびとのために尽くせない至高神など、必要ない。 それに、里桜は幽鬼を滅することのできる逆さ斎のちからを、雲桜が滅亡したことを端に自ら手に入れたのだ。そのちからを失った状態で、雲桜の、死んだ土地神が別の少女のために遺したちからを自分